外国語教授法っておもしろい

さて、このブログを読んでいる方にも日本語教員養成試験を受ける方がいらっしゃるかもしれませんね。

私は20年ほど前(いや、もっと前だったかな??)に日本語教育能力検定試験を受けました。その時、外国語教授法は単なる用語として覚えていました。呪文のように暗記し、その教授法ができた背景など全く考えもせず、念仏のように唱えていました。

時は過ぎ、私が日本語教育能力検定試験の解説を行うようになったとき、教授法の専門書を読み漁りました。教授法の論文を和訳したものを主に読みました。そこには、文法訳読法が出来た背景やそれで学んだ学習者の階層、その方法で学ぶ必要性など、教授法のメソッドに焦点が当たっているというより、その方法で学ばなければならない理由などが書かれていました。そして、時代が移り、ヨーロッパで移民が増えるとナチュラルメソッドが誕生し……というように、その当時の時代背景と連動して色々な教授法が生み出されているようでした。

これはあくまで私の感想ですが、教授法のトレンドはヨーロッパで誕生したもの⇒アメリカで誕生したもの⇒ヨーロッパで誕生したもの のようにトレンドが移り変っている気がします。2000年代に入り、移民の受け入れがヨーロッパをはじめ世界的に拡大され、CEFRを言語運用レベルを測る基準とするように推奨され、日本語教育も変容を求められています。

ご存知の方も多いでしょうが、みんなの日本語がまだ広く採用されている日本ではアーミーメソッド的な練習が根付いています。現在の日本語教育の現状(アーミーメソッド的なものを採用しているという点など)が全てOKとは言いませんが、長らくそれらを採用してきた背景には日本語の形式とそれが持つ意味機能の精密さだけではなく、日本に住む人々の考え方、さらには日本人の日本語観が投影されているのではないかなと思っています。(変えられないのではなく、敢えて変わらないという意味合いです。)

さて、そのような価値観を持つ私たちは変容できるのかな……と現状を傍観しております。移民受け入れについても、もしかしてまた変わり、また教授法も変わるのかな……などなど予想してみたり……。

教授法は、テストの中の用語としてだけ捉えると無機質で面白みが半減しますが、時代背景と照らし合わせて眺めると、用語集から飛び出し、政治とも深く関わっていることが分かります。ですから、テストのための用語としてだけ覚えるのはもったいないなぁと思う今日このごろです。まぁでも試験勉強のときは、そんな余裕ないんですけどね……w

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